「鮨といえば宮城」、そう呼ばれるようになりたいと、仙台藩の伊達家に因み、江戸前ならぬ「伊達前」の鮨を全国にアピールしようと立ち上がった人達がいます。
まず、その仕掛け人をご紹介しましょう。
大森圭さん、1977年生まれ。宮城県石巻市にある鮮魚仲卸の株式会社ダイスイ社長。業界では、「神経締め」などの仕立てにより、魚を最良の状態で飲食店や料理人のもとへ届ける「大森式流通」で知られる魚の匠です。

朝5時半、石巻漁港(石巻市水産物地方卸売市場)に、大森さんの姿がありました。大量の魚を買い付ける大森さんは、市場でも一目置かれる存在です。

この後、大森さんは、もう1カ所、小さな港に向かいます。石巻市鮎川浜にある鮎川漁港です。
「実は、この市場は10年ほど前に買受人がいなくなって閉鎖するところでした。でも、私が当時の組合長に『1尾でも取りにくるからやめないで』とお願いして、続けてもらいました。今、ここに揚がる魚は全部、私が買い取っています」
大森さんは、何故この漁港に惹かれるのでしょう。
「鮎川漁港には、牡鹿半島から最高級のマコガレイやホシガレイが揚がります。大きな市場では滅菌海水に活魚を入れるのですが、ここは海に近いところに井戸を掘り、その海水を流して、環境にやさしい、自然に近い状態で水揚げができるのです」
この日は、お父様で創業者の大森春雄さんも港に顔を出されていました。1948年生まれ。時には、トラックの運転も引き受ける「現役」です。

今や全国の業界にその名を知られる大森さんですが、ここまでの道のりは平坦ではなかったようです。高校を卒業後、仙台の卸売市場に3年ほど勤務しますが退職。30歳を前にして、ようやくお父様の会社に入ります。
「その頃は、定刻に出社退社のサラリーマン感覚で仕事をしていました。転機は2011年3月11日の東日本大震災です。市場も会社も津波で流され、避難所暮らしでした。そこには船を失った漁師さんもたくさん避難していましたので、酒を酌み交わしながら、これからどうするか、話し合いました。そこで改めて食の大切さを痛感。『自分の会社や石巻の漁師さんの生活を守るため、魚価を高めたい』と、本気で魚と向き合い、神経締めなど魚の仕立てや流通を学んだのです。それが、私のリスタートでした」

事業が順調に発展していく中で,大森さんには一つ残念なことがありました。それは、最高の魚を仕入れ、仕立てても、ほとんどが東京の豊洲に出荷せざるをえないということです。
「豊洲で高値をとるより、地元で料理してもらい、県外の人に宮城へ食べに来てもらう方が、圧倒的に価値があると思います。ただ、それに相応しい料理人さんがいなかったのです」
そんな大森さんの耳に、東京・四谷にある鮨の名店「三谷」で修業した若手が仙台に戻り、店を開いたという噂が聞こえてきました。
出会いは2025年2月。その時、大森さんは、「うちに遊びにおいで。今より鮨、絶対に美味しくするから」と言い放ち、その若き大将は、すぐに石巻を訪ねたといいます。

2024年12月、仙台市青葉区に「鮨 いわ貴」を開業した岩井貴之さんです。
1992年、仙台市に生まれた岩井さんは、父・祖父・叔父・従兄弟が鮨職人、従兄弟の子も修業中、祖母も料理店を経営と、鮨や和食に囲まれて生まれ育ち、幼稚園の時、既に将来はお鮨屋さんになると決めていたという、まさに「鮨の申し子」です。

四谷「三谷」は、何年も先まで予約が埋まっている超有名店ですが、どうして、弟子入りができたのでしょう。
岩井さんは、東京・国立市の「エコール 辻 東京」で日本料理を学び、実家の鮨店を手伝いながら修業先を探していました。直接、「三谷」に電話して、どうにか面接していただけるようになった時、岩井さんは、頭を丸刈りにして臨みました。
「親方は、『丸刈りにして、採用にならなかったらどうするつもりだ』と言われました。本当は,断るつもりだったらしいのですが、途中から、気が変わったそうです(笑)」
岩井さんが「三谷」に入り、人生の転機となったのも、東日本大震災の1週間後、2011年3月18日でした。

徹底的に素材の生かし方を追究する「三谷」の親方のもとで、岩井さんは何を学ばれたのでしょう。
「人を敬うこと、言葉使いなど、人としての生き方をすごく叩き込まれました。
技術は、やっていれば身につくものだ、というのが親方のお考えです」
四谷「三谷」で6年半、「紀尾井町 三谷」では2番手として握りも経験しながら6年半、つごう13年間、親方に伴って築地や豊洲に通い、鮨のすべてを学び、女将となる人生の伴侶も得て帰郷しました。
岩井さんは、ご自身の店を開くにあたって、宮城ならでは、岩井さんならではの鮨を追求しています。鮨米は宮城の「つや姫」。お酢は米酢で、塩やきび砂糖、純米酒を入れたりして、種に合わせた鮨米を工夫しています。

大森さんのもとを訪ねて、岩井さんはどう思われたのでしょう。
「大森さんの魚を初めて見た時、こんな世界があるのだと、感動しました。宮城のすごいところは、朝獲れたものが夕方、店に届いて、夜、お客様に出せる。今までにないワクワク感があり、一人で魚を下ろしながら、いつもニヤニヤしています」

大森さんは語ります。
「神経締めは、魚の死後硬直を延ばして旨みを残すために施しますが、豊洲ですと、翌日着で丁度良い塩梅に仕立てます。それが宮城県内ですと、その日の内ですから、料理人さんが魚をどう活かすか、自身でやれることの幅が広がります。私は、心から、この魚を、あの料理人さんに触ってほしいと思った時、連絡するようにしています。豊洲に送れば、2、3万円するものを彼らに送り、県外には出さない。そんな私の心意気を感じ取ってくれる鮨職人が5人集まりましたので、『伊達前鮨プロジェクト』を立ち上げることにしました。東京の名店で修業した3人、地元でじっくり腕を磨いてきた2人。このレベルの店が県内に5軒もあるなんて、すごくないですか?」

お二人から何度も出てきたのが「ワクワク」という言葉です。
鮨が好きで堪らず、鮨と関わっていたいと思い続けていた魚の匠・大森さん。
鮨屋さんになる、自分の店を持つと口に出し、言霊を信じていたという岩井さん。
宮城の「ワクワク」感は、きっと全国の、そして世界の皆さんに伝わることでしょう。
さあ、「鮨の宮城」へ、旅に出ましょう!

株式会社ダイスイ
住所 〒986-0022 宮城県石巻市魚町3丁目13-6
電話 0225-25-4421

鮨 いわ貴
住所 〒980-0011 宮城県仙台市青葉区上杉3丁目9-32 レーヴテラス上杉101
電話 022-395-5200
URL https://sendai-sushiiwaki.com
アクセス 東北自動車道 仙台宮城ICから約15分

文/宮川俊二
撮影/奥谷仁