「一人の魚屋さんが、地域の食を変えるのですか?」
ある県の知事さんに、静岡県の急速な食の進化についてお話した時、返された言葉です。
その話題の主が前田尚毅さん(1974年生)。焼津市にある「サスエ前田魚店」5代目店主です。
前田さんは、まず、町の人たちの食卓を支える魚屋であり、国内のミシュラン3つ星レストランをはじめ、アジアにも魚を卸す専門販売業者。そして、3つ目の顔が、静岡県内のシェフ・料理人の皆さんと、「どうすれば、魚が旨くなるか」を探究する「チーム前田」のリーダーです。

駿河湾は、水深が2500mにも及び、起伏に富んだ地形に多様な魚介が生息する海洋資源の宝庫です。その駿河湾の恵みを超一流店に納め、高く評価されたところから、前田さんの物語は始まりました。
「東京で認められた魚を静岡で食べられれば、地元にもっと人を呼ぶことができる。それが地方創生のモデルケースになるはずだ」
そう考えた前田さんは、2007年、静岡市内に「てんぷら成生」を開業していた志村剛生さんと共に、魚の仕立てと調理方法の試行錯誤を重ねました。
その「成生」が、今や海外からのゲストも含め、静岡に人を呼び込む予約困難店になっていることは、ご承知の通りです。

この日は、今年一番というほど型の良い、プリプリしたアジやサバが揚がり、研鑽を重ねる料理人全員が市場に集まっていました。
「日本料理FUJI」藤岡雅貴、「馳走 西健一」西健一、「なかむら」中村友紀、
「温石」杉山乃互、「成生」志村剛生、「シンプルズ」井上靖彦の各氏。静岡の食を盛り上げる精鋭たちです。

日本でもまだまだ普及していない、魚の鮮度を保つための技術「神経締め」も、ここでは皆さん、普通のこととして施されています。
「『神経締め』は、当たり前。今は、『冷やし』と『游がせ(およがせ)』です」
と、おっしゃる前田さん。
市場の一隅に幾つも置かれた水槽。これが、「游がせ」の現場のようです。
「料理は仕入れから」と言われますが、前田さんは、始まりは「海の中から」と考え、長い月日をかけて、魚を捕る漁師さんたちに説明を繰り返しました。
まず、魚にストレスを与えない捕り方をすること。生きたまま港まで運ぶこと。
こうした手間のかかる作業を引き受けてくれる漁業者を見つけ、実際に料理したものを食べてもらい、賛同する人を増やしていったのです。

「細胞内の酵素の活性化で細胞膜が破れ、ドリップが出ないように冷やします。さらに、温度差のある箱に入れて浸透圧のスピードを変え、レストランごとにオーダーメードの魚を仕立てるのです」と前田さん。
こうして、体内に旨みと水分をたっぷり含んだ魚は、それぞれ料理人のもとへ送り出されます。

市場から帰ると、前田魚店の作業場で、それぞれ自分の料理に合わせて下拵えをしていきます。

そして、「じゃんけん」。前田さんの目利きで仕入れたものですから、どれも極上品。でも、最後は、じゃんけんで行き先を決めるという、張り詰めた作業の中でのリラックスタイム。
この素晴らしいチームワークが、美味しい料理を生む大きな力になっているのでしょう。

では、このように仕立てられた魚は、どう料理されているのか。今、注目を集める「焼津3人衆」のお店で拝見しましょう。
茶懐石の名店「温石」。杉山さんは、駿河湾の名産、金目鯛を「うろこ焼き」にします。細やかで優しい火入れ。やがて、旨みがじわじわと染み出し、最後に、強火で炙ることによって、金目鯛という魚の輪郭をきりりと描き出します。カリッとした皮目と鮮度が群を抜く身質に閉じ込められた旨み。口の中で弾ける瑞々しい美味しさは例えようがありません。

フランス料理のシェフ、西健一さんは、広島市に店を構えていましたが、前田さんの魚に惚れ込み、2022年、焼津市に移住。前田さんの店のすぐそばに「馳走 西健一」を開店しました。タイトル写真のアジも西さんのひと皿です。スペシャリテは、水分をたっぷり含んだ魚をパイ包み焼きにした一品。この日は、太刀魚を包んでいました。西さんのレストランも、たちまち予約困難な人気店となりました。

焼津駅前に2023年5月に開店した天ぷら店「なかむら」の中村さんは、約8年、「成生」の志村さんのもとで修業しました。
「江戸前の天ぷらは、水分を抜く脱水で、さらにその先まで揚げ出す感じ。私は保水された身を大切に、しっとり、ふわりと包み込むように揚げて、食感と旨みを表現しています」
ここには、衣を介して、抜く水分と、残した水分、その精妙なバランスの上に成り立つ、天ぷらという料理の神髄があります。

前田さんは、自分が手当したものが、料理としてどう仕上がったのか確認するため、「夜な夜な会」と称し、営業後の店を訪ねて、料理人・シェフと反省会を開いています。時には漁業者にも加わってもらい、新しい漁法と従来の捕り方を比べ、味の違いを実際に食べながら感じ取ってもらうのだそうです。
「海の状態、魚の様子も日々変わります。自分の弱点を見つけ、自分の中にデータを積み重ね、翌日入ってくる魚に対応しなければなりません。正解はわからないのです」
魚を捕ることから始まり、世界最高レベルの魚料理が出来上がる、その間に、魚屋・前田尚毅さんが立っているのです。

住所 〒425-0036 静岡県焼津市西小川4-15-7
店名 サスエ前田魚店
電話 054-626-0003
アクセス 東名高速道路焼津ICから車で10分程度

住所 〒425-0022 静岡県焼津市本町6-14-12
店名 茶懐石 温石
電話 054-626-2587
アクセス 東名高速道路焼津ICから車で15分程度

住所 〒425-0036 静岡県焼津市西小川4-8-9
店名 馳走 西健一
電話 054-625-8818
アクセス 東名高速道路焼津ICから車で10分程度

〒425-0027 静岡県焼津市栄町2-4-8
店名 なかむら
電話 054-639-6613
アクセス 東名高速道路焼津ICから車で10分程度

文/宮川俊二
撮影/大野仁志